一人になりたくて
12時、ペリヤール発。
別に急ぐ旅でもないのに、昼食も取らずにバスに乗ってしまった。
確かにここには居過ぎたけれど、バスを1本遅らせても何も支障はないというのに。
バスの中で味気ないビスケットを齧る替わりに、俺の泊まっていたレストランのターリーをいっしょに食べればよかったのだ。
『ケララミール』とメニューに書かれたそれはいわゆるターリーだが、さすがホテルだけあって味がよかった。
カレーは1種だがインゲンや人参、瓜や玉ねぎがごろごろ入ってい、それにプーリー(薄いチャパティみたいなのを揚げたもの)が2枚と漬物4種、ヨーグルトと乳清(ヨーグルトの上澄み)、それにご飯がついていた。
米は地方によって丸かったり細かったりするが、ここら辺のは丸くて大粒で、なぜか赤い筋が入っている。
この米粒の事でも話の種にしながらのんびり過ごすのもいいな、と朝は思ったはずじゃないか。
あの子には以前も会ったことがある。
そのときから分かっていたはずだったのに、あの男は普段余り無頼なので、つい俺のような根無し草だと錯覚してしまう。
けれど、家に帰れば奴には奥さんとかわいい娘が待っているのだ。
あんなに危ない橋をいくつも渡っているくせに。
奥さんはどんな人なんだろう。
強引なあの男に従う、楚々とした人なんだろうか。
いや、娘を危険(かもしれない)な旅に奴とともに送り出すのだから、こいつに似合いなくらい芯の強い女性なんだろう。
案外こいつの方が奥さんの尻に敷かれていたりして。
そんなことに思いをめぐらせているうち、なんだかいても立ってもいられなくなってしまった。
俺は俺だ。
この仕事を選んだ時に、そういうふんわりした幸せとは無縁になるとわかっていた。
選んだことを後悔してはいない。
俺の人生は密度の濃いものだし、それを誇りに思っている。
平凡な幸せのある人生と今の人生、どちらを選ぶか聞かれても、俺は今の人生を選ぶことだろう。
けれど俺と同じような生活をしながら、なおかつ平凡な幸せでいっぱいの『お父さん』の顔をした男を見て、一瞬猛烈な嫉妬を覚えた。
そんな自分に動揺した俺は、車の振動をもろに受ける粗末な席に座ってどこかに行こうとしている。
外の景色は単調だ。
ここら辺は石の採掘場らしい。
岩を切り崩して石垣くらいの塊にし、それをつるはしで砂利の大きさにまで砕く多くの人々。
すべて手作業で、腰の曲がった女の人まで炎天下の中、働いている。
どれだけの労力が必要なのか。
途中でがたんと音がした。
バスが停まり、運転手が降りる。
しばらくすると乗り込んで走り始めたが、明らかに速度が遅い。
自転車と張るんじゃないかと思う速さだ。
30分ほど走って村に入ると店の前に停まり、休憩だと言う。
だが
「いつまでだ?」
と聞いても
「出かけるときにはちゃんと教えるからノープロブレム(大丈夫だ)」
と言うだけだ。
あーあ、とうとうノープロブレムが出たか。
これを連発する時ってたいてい大丈夫じゃない時なのだ。
みんなを降ろしたバスは、これから修理に入るらしい。
でもありがたいことに、目の前にはおんぼろながらレストランがある。
サモサとチャイを頼んで、昼食代わりにした。
サモサはカレー味のジャガイモやグリーンピースを小麦粉の皮に詰めて揚げたものだ。
手軽に食べられるし腹持ちがいいため、小腹が空いた時につまむのにもってこいだ。
サモサを食べ終え、ポットティーの中身を減らしながらぼんやりしていると、男に声を掛けられた。
外人てのは珍しいから、こんな風によく声を掛けられる。
退屈していたからこんなのもいいな、と思いながら話を続けている内、けれど話が妙な具合になってきた。
服をほめられるのは、いい。
きれいな髪の毛だというのも、まあインドにはない色だろうからな、と思う。
だが
「その美しい瞳を覗かせてくれ」
ってのはなんだ?
とどめは
「今晩一緒にいてくれたら300ルピーあげよう」
だ。
うわー、安い!
じゃないよ。
間に合ってます。
外に出てタバコを吸いながら、俺は一体どんな顔をしていたんだろうと思う。
そんなに人恋しそうに見えたんだろうか。
隙だらけだったのだろうか。
いけないな。
このところ俺の携帯は全然鳴っていない。
商売上がったりなのはいいことだ。
忙しい時には数件重なってしまうことだってあるんだから、暇な時はせいぜい骨休めすればいいんだ。
そういう風に思っていたつもりだったが、長くさまよっていると俺なんていてもいなくても関係ない、塵のようなもの、などと心の奥底で考えてしまう。
こういう気分の旅人は、一番つけ込まれやすいのだ。
気鬱の波が来たのかな、と思う。
長い旅をしていると、時たま些細なきっかけでストーンと落ち込むことがある。
長旅に必要なのは体力と少々の金と気力。
どれが欠けてもうまくいかない。
体力がなければ途中で倒れるし、金が尽きればそこで旅は終わる。
気力がなくなると一点から動けなくなる。
こういう時には移動を繰り返すしかないと知っている。
どこでもいいから、動け。
動けば『今日は移動した』という事実が残る。
そうでなければ1日中部屋でだらだらすることになりかねない。
あの男の事もきっかけだったのだろうが、きっとそういう時期だったのだ。
タバコを吸い終わり、集落の中を歩いていると、子どもが物珍しそうについてくる。
くるっと振り返って
「ナマステ」
と胸の前で手を合わせると、一瞬逃げようとした足が止まった。
「ユー、イングリッシュ?」
というのは、英語で話していいか、という意味。
学校に行っている子は、たいてい英語を使ってみたくてたまらないのだ。
インド人の癖のある英語は、でも慣れれば日本人の英語と同じくらいによく聞き取れるものだ。
彼は外国の食べ物に興味があるようで、色々答えている内に修理を終えたバスが戻ってきた。
その後はバスもつつがなく走り、6時半、コタヤム着。
あれ? 俺コーチン行きのバスに乗ったつもりだったんだけど、まあいいか。
コタヤムまで来たのだ、どうせならもう少し南まで行ってやろうかと思ったのだが、もうバスはなかった。
ここで宿を取ってもいいが、今日はもう少し自分を痛めつけたい気分。
ボートジェッティーでアレッピーに行けると聞いたので、船着場に回る。
次のジェッティーは夜の8時半、明日は7時半からだそうなので、夜の便に乗ることにして近くの食堂に入る。
こういうところによくある安食堂。
店内の何箇所かに裸電球がついていて、人が座ると汚い布巾で、それでも丁寧にテーブルを拭いてくれる若い店員がいるような店だ。
席に着いた途端
「ターリー?」
と聞かれたので、メニューはそれしかないのかもしれない。
みんな大きなおぼんと見まがうターリー皿を前に、もくもくと食べている。
外が暗くなっていたので少しでも長く店にいたかったが、7時半になると
「終わりだ」
と言われたので外に出る。
英語の雑誌を買ってジェッティー乗り場の隅に陣取って読んでいたら、急に真っ暗になった。
停電だ。
暗すぎて、うかつに動くと河に落っこちてしまいそうだ。
じっとしていると、どぶ臭い匂いが鼻を突く。
生活排水がそのまま入っているのかもしれないし、河口近いので水がよどんでいるのかも。
蒸し暑いことも相まって、生き物の気配が濃くする。
目が慣れてくると、地面のあちこちを虫が這い回っているのが見える。
そういえば、さっきの店もゴキブリが壁をのそのそ歩いていたっけ。
だがその歩みがあまりゆっくりなのとあまり大きくないのとで(ついでにおれ自身も暑さで感覚が鈍っているのか)近くを通ってもあ、虫だ、と思うだけだ。
8時ごろジェッティーが到着。
それと同時に停電も終わる。
裸電球がいくつかついただけだが、それだけでもぜんぜん違う。
ジェッティーは生活の為の大きな渡し舟だ。
座席は80くらいあり、その他の部分にたくさんのドラム缶が積まれていた。
客は少なく、外国人は俺くらい。
ホテイアオイは汚い水に生えるというが、水面はホテイアオイだらけだ。
そのホテイアオイが動いている。
ゆっくりと。
油の膜も、又。
船の上ではどぶ川の匂いがきつい。
虫の音がする。
何かを洗う音。
話し声。
食器のこすれる音。
ベンチに長々と伸びていびきをかく男。
そんな雑多な音に包まれながら、20時半出発。
せっかくだからこの風景を楽しもうと思ったが、舟が動き出した途端に緊張が解けたらしく、みなに習って俺もベンチに丸まり眠る。
暗さと匂いと暑さと体を絡め取るような湿気と揺り籠のような振動。
そんなののただ中でうとうとするのは、なぜかとても心地よかった。
22時半、アレッピー着。
船着場で客待ちしていたリクシャーに乗り、適当な安宿に入る。
部屋も見ずのチェックインだったが、そんなに悪くない。
シャワーも壊れてないようだし。
シャワーから出ると裸のままベッドで新しいシーツに包まる。
エアコンはないので暑いが、部屋の中にも虫の気配がするので手足も出さないほうが無難だろう。
ちょうどいいからたくさんの汗とともに心の澱も出してしまおう。
明日はきっと元気になっている。
いままでもそうだったのだから。
「幾ら?」とか「○ルピーで」というの、私は聞かれたことがありませんが、何度も声をかけられたという女の子もいました。
でも、やはり物価が違うので「100ルピー」と言われてブチ切れた、なんて笑い話になることが多いようでした。
もちろんの事ですが、そういう風に声を掛けられるのは普通女性です、念のため。